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恋とは何か。

by アラヤ

奇妙な話をしよう。

信じるも信じぬも、読者諸君の自由である。ただ私は、あの夜以来、納豆の糸を見るたびに、あの男の指を思い出さずにはいられない。細く、白く、異様なほど美しい指を。その指が糸を引くたびに、私の背筋を何かが這い上がった。恋と呼ぶには余りに暗く、恐怖と呼ぶには余りに甘い、あの感覚を。

事の起こりは、ある深夜の台所であった。

私が下宿の台所に立ったのは、丑三つ時を少し過ぎた頃であった。裸足の足裏に、タイルの冷たさが吸いついてきた。その冷たさが妙に心地よく、私はしばらく動けなかった。人間というものは、時に不快の中に悦楽を見出す。それを倒錯と呼ぶ者もあろう。しかし私に言わせれば、それこそが人間の最も正直な姿である。

厚揚げを焼こうと思った。

理由はない。深夜に人を動かすものに、理由などというものは存在しない。存在してはならない。理由のある行動は、昼間のものだ。深夜は、衝動だけが人を動かす資格を持つ。

フライパンに厚揚げを置いた瞬間、背後で物音がした。

振り返ると、誰もいなかった。

いや、正確には、いた。

薄暗い廊下の奥に、人の形をした影が、ぼんやりと立っていた。私はその影を、一秒、二秒、三秒と見つめた。影もまた、私を見ていた。見ているとしか言いようのない気配で、じっと、息をひそめて、こちらを見ていた。

厚揚げが焦げる匂いがした。

目を離した。フライパンを見た。再び振り返った時、廊下には何もなかった。ただ夜の闇が、廊下の奥まで満ちているばかりであった。

私は焦げた厚揚げを皿に移し、震える手で鯖の水煮の罐を開けた。

鯖の水煮というものは、不思議な食物である。

あの銀色の罐の中に閉じ込められた魚は、生きていた頃の海を覚えているのだろうか。暗く、冷たく、広大な海の記憶を、あの白い身の内側に封じ込めたまま、罐の中で眠っているのだろうか。私はそう思わずにはいられなかった。閉じ込められた記憶というものは、腐らない。腐らないまま、静かに、飼い主の帰りを待ち続ける。

恋もそれに似ている、と私は思った。

その時、また背後に気配がした。

今度は振り返らなかった。振り返れなかった。何かが、私の背中に視線を縫い付けていた。針のように細く、しかし確実に、私の背骨の一点を見つめている視線が。

「誰だ」と私は言った。

声が、自分でも驚くほど掠れていた。

返事はなかった。

代わりに、どこからともなくガガガSPの歌声が聞こえてきた。いや、歌声というには余りに荒々しい、怒鳴り声と嗚咽の中間のような音が。しかしその音の中に、私は奇妙な甘さを聞いた。荒々しいものの底に必ず潜んでいる、あの繊細な痛みを。

音はすぐに止んだ。

私は納豆を混ぜ始めた。八十回、混ぜた。混ぜながら、ある顔を思い出した。細く白い指の持ち主の顔を。その顔は笑っていた。笑っているのに、目だけが少しも笑っていなかった。そういう顔というものが、世界で最も危険である。私はそれを知っていた。知っていながら、引き返せなかった。

納豆の糸が、異様なほど長く伸びた。

おにぎりを握った。

形が歪になった。私の手が、まだ震えていたからだ。歪なおにぎりを、私は無人島へ持っていく食料のように、丁寧に皿へ置いた。無人島。そう、私はあの夜から、一種の無人島に住んでいる。都市の真ん中にある、誰にも発見されない無人島に。波の音の代わりに、深夜の車の音が聞こえる無人島に。

食えなかった。

食えないまま、夜明け前の空が白み始めるのを、裸足でベランダに立って見ていた。東の空の端に、死にかけた夜の最後の抵抗のような、暗い紫色が滲んでいた。その色が、少しずつ、しかし確実に薄れていく様を見ながら、私は思った。

恋とは何か。

恋とは、夜明け前の最も暗い時刻に、裸足で立って、焦げた厚揚げと鯖の水煮と食えなかったおにぎりを背後に置いたまま、消えていく闇を見送ることではないか。消えてほしくないと思いながら、それでも夜明けを待ってしまう、あの矛盾ではないか。

廊下の影のことは、誰にも話していない。

今でも時々、深夜の台所に立つと、背後に気配を感じる。振り返る。誰もいない。ただ納豆の糸だけが、切れずに伸び続けている。

諸君は、信じるだろうか。

私は今夜も、鯖の水煮の罐を開ける。

——了——