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「部室内異物発見。月曜日。8時14分。詳細は割愛」

by アラヤ

五反田学園の文芸部室は、校舎の端にあった。

古い木造の部室で、窓から五反田の街が見えた。夕方になると西日が差し込んで、埃が光の中に舞った。その埃を見ながら、六人は今日も本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。本当は、別のものを見ていた。

六人全員が、別のものを見ていた。

そのことに、六人全員が、気づいていなかった。

すず代表は、三年生だった。

容姿端麗、頭脳明晰、文芸部の部長。廊下を歩けば振り返られ、発言すれば皆が頷き、試験では常に学年トップだった。すず代表という人間は、生まれた瞬間から少女漫画の主人公だった。本人だけが、そのことを知らなかった。

森さんのことを、好きだった。

ずっと好きだった。

しかし言えなかった。言えない理由は特になかった。ただ、言えなかった。言葉というものは、大切なものほど、喉の手前で止まる。すず代表は頭が良かった。頭が良いから、言えなかった。言った後のことを、全部考えてしまうからだ。

森さんは今日も、部室の隅で本を読んでいた。

メガネをかけていた。大人しそうに見えた。すず代表はその横顔を、本の陰から盗み見た。

気づかれなかった。

毎日、気づかれなかった。

五十嵐さんは、すず代表の斜め後ろの席に座っていた。

いつもそこにいた。いつもタブレットを開いていた。文芸部の部誌のレイアウトも、予算管理も、対外的な連絡も、全部五十嵐さんがやっていた。すず代表が部長として前に立てるのは、五十嵐さんが全部後ろで支えているからだった。

誰も、そのことに気づいていなかった。

いや、正確には、すず代表だけが知っていた。知っていながら、何も言わなかった。言葉にした瞬間、何かが変わる気がして、言えなかった。

五十嵐さんはすず代表が好きだった。

ずっと好きだった。

しかしすず代表が森さんの横顔を盗み見ていることを、五十嵐さんは知っていた。斜め後ろから、全部見えていた。毎日、全部、見えていた。

見えているから、何も言えなかった。

部誌の校正をしながら、五十嵐さんは今日も、すず代表の横顔を見た。

気づかれなかった。

毎日、気づかれなかった。

町田さんは、窓際の席に一人で座っていた。

クールだった。いつもクールだった。必要な時以外は喋らなかった。必要な時でも、最小限しか喋らなかった。文芸部に入った理由を誰かに聞かれたことがあったが、「静かだから」と答えた。それ以上は言わなかった。

MIKIさんのことを、好きだった。

ずっと好きだった。

MIKIさんは声がでかかった。陽キャだった。スケベだった。メガネをかけていた。ベースを弾いていた。町田さんとは、あらゆる点で正反対だった。正反対だから、目が離せなかった。正反対だから、隣にいると落ち着いた。自分の中にないものを、MIKIさんは全部持っていた。

しかし町田さんは、それを言わなかった。

言えるはずがなかった。

クールな一匹狼が、陽キャのスケベなメガネのことを好きだと言える世界線が、どこにあるのか。

窓の外の五反田の街を見ながら、町田さんは今日も黙っていた。

MIKIさんの声だけが、部室に響いていた。

MIKIさんは、今日も声がでかかった。

「ねえ聞いて!!昨日バンドの練習でさ、ベースのソロ決まったんだけど!!」

「うるさい」と町田さんは言った。

「え、そんなこと言わないでよ!!聞いてよ!!」

「聞こえてる。うるさいから聞こえてる」

MIKIさんはめげなかった。陽キャはめげない。それが陽キャの定義だった。

MIKIさんは五十嵐さんのことが好きだった。

ずっと好きだった。

しかしそれを、誰にも言っていなかった。声がでかいMIKIさんが、唯一、声に出せないことだった。五十嵐さんの前だけ、MIKIさんは少しだけ声が小さくなった。誰も気づいていなかった。デリカシーがないと思われているMIKIさんが、五十嵐さんに対してだけ、言葉を選んでいた。

「五十嵐さん、部誌の進捗どう?」

「順調です」と五十嵐さんは言った。

「そっか!!よかった!!」

MIKIさんは笑った。大きく笑った。

五十嵐さんはすず代表を見ていた。

MIKIさんは、その視線の先を、見なかった。見たくなかったからだ。

澤田さんは、部室の一番後ろの席に座っていた。

でかかった。文芸部にいることが、構造的に間違っている体格をしていた。しかし澤田さんは文芸部にいた。理由は一つだった。すず代表が部長だったからだ。

すず代表のことが、好きだった。

ずっと好きだった。

しかし澤田さんは、繊細だった。パワー系の外見に似合わず、繊細だった。傷つくことを、誰よりも恐れていた。だから言えなかった。格闘技で鍛えた拳は、誰にでも向けられたが、好きという言葉は、誰にも向けられなかった。

澤田さんは今日も、すず代表の後ろ姿を見ていた。

すず代表は森さんを見ていた。

澤田さんは、その視線の先を、薄々感じていた。

感じているから、もっと言えなかった。

部室の後ろで、澤田さんは今日も、文庫本を読むふりをしていた。ページは、一時間で三枚しか進まなかった。

森さんは、部室の隅で本を読んでいた。

本当に読んでいた。六人の中で、唯一、本当に本を読んでいた。大人しかった。メガネをかけていた。静かだった。

しかし森さんには、誰も知らない側面が二つあった。

一つ目。キレると手がつけられなかった。

二つ目。実は六人の中で一番スケベだった。本の趣味がそれを物語っていたが、カバーをかけているので誰も知らなかった。

そして森さんは、町田さんのことが好きだった。

ずっと好きだった。

町田さんのクールさが好きだった。最小限の言葉で全部を言い切るところが好きだった。窓の外を見ている横顔が好きだった。MIKIさんに「うるさい」と言いながら、ちゃんと聞いているところが好きだった。

しかし森さんは、それを言わなかった。

町田さんがMIKIさんを見ている時の目を、知っていたからだ。

部室の隅から、森さんは全部見ていた。すず代表が森さんを見ていることも、五十嵐さんがすず代表を見ていることも、町田さんがMIKIさんを見ていることも、MIKIさんが五十嵐さんを見ていることも、澤田さんがすず代表を見ていることも。

全部、見えていた。

そして自分だけが、全部見えていることを、誰にも言えなかった。

本のページをめくった。

内容は、頭に入ってこなかった。

事件が起きたのは、十一月の月曜日だった。

五十嵐さんが部室のドアを開けた瞬間、気づいた。

床の中央に、それはあった。

説明しにくい存在感だった。主張が強かった。部室の空気を、完璧に、支配していた。

五十嵐さんはタブレットを開いた。

「部室内異物発見。月曜日。8時14分。詳細は割愛」と入力した。

割愛した。

火曜日にも、あった。

場所が少し違った。月曜日は床の中央だったが、火曜日は窓際だった。

町田さんが発見した。

窓の外を見ようとして、気づいた。

「うるさい」と町田さんは言った。

誰も喋っていなかった。

しかし町田さんには、そう言わずにはいられない何かがあった。存在への抗議だった。

水曜日にも、あった。

今度は澤田さんの席の上だった。

「なんで俺の席なんですか!!」と澤田さんは叫んだ。

「お前が犯人じゃないのか」と澤田さんは言った。

「俺じゃないよ!!失礼な!!」とMIKIさんは言った。声がいつもより更にでかかった。「つーかこれ毎日来てんじゃん!!ストーカーじゃん!!うんこのストーカーじゃん!!」

「うんこのストーカーという概念が今生まれた」と森さんは言った。

全員が森さんを見た。

森さが普段より喋った。珍しかった。メガネの奥の目が、真剣だった。

「鋭い指摘だ」とすず代表は言った。

森さんは少し、耳が赤くなった。

すず代表には気づかれなかった。

「犯人を捜す」とすず代表は言った。

全員がすず代表を見た。

文芸部に、緊張が走った。

謎のうんこが、六人を一つにした。皮肉だった。これまで誰も言えなかった気持ちは六人を別々にしていたのに、謎のうんこは六人を一つにした。世界は不条理だった。

翌日、四つ目が発見された。

今度はすず代表の席だった。

澤田さんの顔色が変わった。

「すず代表の席に置くとは」と澤田さんは言った。静かな声だった。繊細な人間の怒りは、静かで、深い。「許さない」

「落ち着け」とすず代表は言った。

「落ち着けません」と澤田さんは言った。「すず代表の席です」

五十嵐さんはその澤田さんを見た。

見ながら、タブレットに「澤田さん、すず代表への気持ちが筒抜けです」と入力した。

保存しなかった。消した。

五つ目が発見された翌日、森さんが静かに言った。

「五十嵐さん」

「はい」

「これ、窓から入ってきてると思います」

全員が森さんを見た。

「窓の鍵の位置が、毎日少しずれています」と森さんは続けた。「写真で比較しました」

五十嵐さんが目を見開いた。

「私も同じことに気づいていましたが」と五十嵐さんは言った。「森さんも気づいていたんですね」

「はい」

「いつから」

「最初から」

五十嵐さんは、少し、黙った。

「なぜ言わなかったんですか」

「言うタイミングを探していました」と森さんは言った。

部室に、静かな空気が流れた。

すず代表が森さんを見た。

森さんは窓を見ていた。

「誰より先に気づいていたんだな」とすず代表は言った。

「はい」と森さんは言った。

「頼りになる」

森さんの耳が、また赤くなった。

メガネのレンズが、少し、曇った気がした。

六つ目が発見された日、MIKIさんが叫んだ。

「今日は俺の席!!なんで俺!!」

「お前がうるさいから」と町田さんは言った。

「うんこに俺のうるささが伝わってるの!?!?」

「知らん」

「怖いよ!!」

その日の放課後、MIKIさんは一人で部室に残って、自分の席を念入りに拭いた。

その背中を、町田さんが廊下から見ていた。

見ていることに気づかれなかった。

七つ目が発見された日、森さんがキレた。

発見したのは森さんだった。

自分の席の上に、それはあった。

森さんは、五秒間、静止した。

それから、立ち上がった。

「誰ですか」と森さんは言った。

声が、いつもと違った。

低かった。静かだった。しかしその静かさが、嵐の前の静けさだった。

「森さん」とすず代表が言った。

「誰が置いたんですか」と森さんは言った。声はまだ静かだった。しかしメガネの奥の目が、別の生き物になっていた。「自分の席ならまだわかります。でも、なぜ、自分の席に置かれなければならないのか、理由がわかりません。教えてください。論理的に教えてください」

誰も答えなかった。

答えられなかった。

「森さん」とMIKIさんが言った。「落ち着いて」

「落ち着いています」と森さんは言った。「これが落ち着いている状態です」

MIKIさんが後退した。

澤田さんが前に出た。格闘技の経験から、この空気を、知っていた。臨戦態勢の人間の空気を、体で知っていた。

「森さん」と澤田さんは言った。「犯人を捜そう。必ず見つける。俺が約束する」

森さんは澤田さんを見た。

五秒、見た。

「わかりました」と森さんは言った。

メガネを直した。

座った。

本を開いた。

しかしページは、一ミリも進まなかった。

部室全体が、しばらく、静寂に包まれた。

町田さんだけが、その森さんの横顔を、静かに見ていた。

あの目を、また見たいとは思わなかった。しかし、あの怒りの底にある何かを、町田さんは確かに見た気がした。

誰よりも、深いところで、何かを大切にしている人間の目だった。

見張りが始まった。

二人一組で、放課後の部室を見張ることになった。

組み合わせは、五十嵐さんが決めた。

すず代表と森さん。町田さんとMIKIさん。澤田さんと五十嵐さん。

五十嵐さんが決めた時、自分ですず代表と組まなかった。意図的に。わかっていて、そうした。すず代表と森さんを、同じ組にした。

誰も気づかなかった。

五十嵐さんだけが知っていた。

すず代表と森さんの見張りは、木曜日の夜だった。

部室に二人で座った。電気を消していた。暗かった。五反田の夜の光だけが、窓から差し込んでいた。

しばらく、誰も喋らなかった。

「森さん」とすず代表は言った。

「はい」

「あの時、怖かったか」

「何がですか」

「キレた時」

森さんは少し考えた。

「怖くなかったです」と言った。「ただ、腹が立ちました」

「何に」

「自分の席に置かれたこと、ではなくて」と森さんは言った。「誰かが犯人で、その人がここに来ているのに、誰も気づけていないことに」

すず代表は、その言葉を、暗い部室の中で転がした。

「鋭いな」とすず代表は言った。

「そうですか」

「お前は、よく見ている」

森さんは黙った。

よく見ている、という言葉が、胸に刺さった。

よく見ているから、全部わかってしまう。すず代表が森さんを見ていることも。その視線が、自分には届かないことも。

「すず代表も」と森さんは言った。

「俺も?」

「よく見ていると思います」

すず代表は少し笑った。

「そうか」

「はい」

また、沈黙があった。

「文芸部、楽しいか」とすず代表は言った。

「楽しいです」

「今年が、一番楽しかった」とすず代表は言った。

森さんは黙った。

今年が、ということは、卒業したら終わりだということだ。

「すず代表が卒業したら」と森さんは言いかけて、止めた。

「なんだ」

「寂しいです」と森さんは言った。

すず代表は、その言葉を、また転がした。

「俺も」と言いそうになった。

言えなかった。

代わりに「しっかりやってくれ」と言った。

森さんは「はい」と言った。

二人の間に、静寂があった。

すず代表は、暗闇の中で、隣の森さんを見た。

森さんのメガネに、窓の外の光が反射していた。

綺麗だと思った。

言えなかった。

町田さんとMIKIさんの見張りは、金曜日の夜だった。

MIKIさんはいつもより静かだった。

「町田さん」とMIKIさんは言った。

「なんだ」

「なんで文芸部入ったの」

「静かだから」

「俺がいるのに?」

「お前が入る前に入った」

MIKIさんは笑った。しかし笑いながら、少し、寂しそうだった。メガネの奥の目が、少し、寂しそうだった。

「俺、うるさいよな」とMIKIさんは言った。

「うるさい」と町田さんは言った。

「やっぱそうか」

「しかし」と町田さんは続けた。

MIKIさんが顔を上げた。

「お前のベースは、うるさくない」

部室が、静かになった。

MIKIさんは、三秒、固まった。

「それ、どういう意味」とMIKIさんは言った。声が、ほとんど聞こえないくらい、小さかった。

「そのままの意味だ」と町田さんは言った。窓の外を見ながら言った。

MIKIさんは、また三秒、固まった。

それから、笑った。

今まで聞いたことのない笑い方だった。声がでかくなかった。静かに、深く、笑った。

町田さんは窓の外を見続けた。

その横顔が、MIKIさんには、今まで見た何よりも綺麗に見えた。

言えなかった。

言えないまま、二人で部室の暗闇の中にいた。

その夜、謎のうんこは来なかった。

澤田さんと五十嵐さんの見張りは、土曜日の夜だった。

しばらくして、五十嵐さんが言った。

「澤田さん」

「はい」

「すず代表のこと、好きですよね」

澤田さんの体が、固まった。

「なんで」

「見てればわかります」と五十嵐さんは言った。笑っていた。「ずっと見てましたから」

澤田さんは黙った。

「私も」と五十嵐さんは続けた。

澤田さんが五十嵐さんを見た。

「私も、すず代表のことが好きです」

部室に、静寂があった。

二人は、しばらく、黙って座っていた。

「じゃあ俺たち」と澤田さんは言った。

「同じですね」と五十嵐さんは言った。笑っていた。

「どうするんですか」

「どうもしません」と五十嵐さんは言った。「どうもできません」

澤田さんは、また黙った。

「五十嵐さんは」と澤田さんは言った。「それでいいんですか」

五十嵐さんは少し考えた。

「よくないです」と言った。

笑っていなかった。

初めて、笑っていなかった。

「でも」と五十嵐さんは続けた。「すず代表の隣にいられるだけで、今は、十分です」

澤田さんは、その言葉を聞いて、胸が痛くなった。

自分も同じだったからだ。

その夜、謎のうんこは来なかった。

しかし五十嵐さんと澤田さんは、何か大切なものを、部室に置いてきた気がした。

犯人は、翌週に判明した。

あっけなかった。

隣のクラスの飼育係が、誤って逃がしたハムスターだった。

窓の隙間から入り込んで、部室を気に入って、毎日来ていた。

「ハムスターか」と澤田さんは言った。

「ハムスターでした」と五十嵐さんはタブレットに入力した。

「哲学じゃなかった」とMIKIさんは言った。

「最初から哲学ではなかったと思います」と森さんは言った。

「しかし」と町田さんは言った。「悪くなかった」

全員が町田さんを見た。

「見張りの夜が」と町田さんは続けた。それだけ言って、窓の外を見た。

全員が黙った。

悪くなかった。

全員が、そう思っていた。

森さんだけが、少しだけ俯いた。

見張りの夜のことを、思い出していた。

暗い部室で、すず代表の横顔を見た夜のことを。

自分の気持ちを、言えなかった夜のことを。

MIKIさんのライブの日が来た。

五反田のライブハウスは、狭かった。薄暗かった。ビールの匂いがした。

文芸部の六人が、全員来ていた。

MIKIさんはステージの上にいた。ベースを持っていた。メガネをかけていた。ライトを浴びていた。

いつもの陽キャのMIKIさんとは、少し違った。ステージの上のMIKIさんは、声がでかくなかった。静かに、しかし確実に、音を刻んでいた。

町田さんは、そのMIKIさんを見ていた。

ずっと見ていた。

人混みの中で、一人で立って、ずっと見ていた。

その町田さんを、森さんは見ていた。

その森さんを、すず代表は見ていた。

その隣で、五十嵐さんは、すず代表を見ていた。

その後ろで、澤田さんは、すず代表の後ろ姿を見ていた。

六人全員が、一つの空間にいた。

六つの視線が、六角形を描いていた。

誰も、自分を見ている人間に、気づいていなかった。

MIKIさんのベースだけが、その六角形の真ん中で、響き続けた。

ライブが終わった後、MIKIさんがステージから降りてきた。

町田さんに向かって、まっすぐ来た。

「来てくれると思わなかった」とMIKIさんは言った。声が、いつもより小さかった。

「来ると言った」と町田さんは言った。

「どうだった」

「良かった」と町田さんは言った。

MIKIさんは笑った。大きく笑った。しかし目が、少し、潤んでいた。メガネの奥で、少し、潤んでいた。

町田さんはそれを見た。

見て、目を逸らした。

逸らさなければ、言ってしまいそうだったからだ。

森さんは、その町田さんの横顔を見ていた。

目を逸らした町田さんの、その一瞬を、見ていた。

本のページをめくるように、静かに、見ていた。

胸が、静かに、痛かった。

帰り道、すず代表と森さんが、偶然、並んで歩いた。

「今日、良かったな」とすず代表は言った。

「そうですね」と森さんは言った。

「MIKIさん、意外とすごいな」

「ベース、上手でしたね」

また、沈黙があった。

夜の五反田を、二人で歩いた。

すず代表は、隣の森さんを、見たかった。見られなかった。こんなに近くにいるのに、見られなかった。

森さんは、隣のすず代表を、見たかった。見られなかった。こんなに近くにいるのに、見られなかった。

「また来年も部誌、よろしくな」とすず代表は言った。

三年生の、三学期だった。

「はい」と森さんは言った。

「頼りにしてる」

「はい」と森さんはもう一度言った。

それだけだった。

それだけだったが、森さんはその「頼りにしてる」を、家に帰ってから、三十回くらい思い返した。

その回数を、誰も知らなかった。

三月になった。

卒業式の日が来た。

すず代表は、制服姿で、最後に部室に来た。

五人が待っていた。五十嵐さんも、町田さんも、澤田さんも、MIKIさんも、森さんも。

「お世話になりました」とすず代表は言った。

誰も何も言えなかった。

「部誌、続けてくれ」

「続けます」と五十嵐さんは言った。

「頼んだ」

すず代表は部室を見回した。古い木造の部室。埃が舞う西日。五反田の街が見える窓。

「良い部室だった」と言った。

それだけ言って、ドアを開けた。

「すず代表」と森さんが言った。

すず代表が振り返った。

全員が森さんを見た。

森さんは、メガネをかけていた。いつも通り大人しそうに見えた。しかし目が、いつもと違った。

見張りの夜に見た目と、同じだった。

「また来てください」と森さんは言った。

それだけだった。

しかしその「また来てください」の中に、森さんが今まで言えなかった全部が、入っていた。

すず代表は、一秒、止まった。

「ああ」と言った。

笑った。

その笑顔が、五人には、眩しかった。

ドアが、閉まった。

部室に、五人が残った。

しばらく、誰も喋らなかった。

MIKIさんが、珍しく、静かだった。

町田さんが、窓の外を見ていた。

澤田さんが、目を赤くしていた。

五十嵐さんが、タブレットを閉じていた。

森さんが、ドアを、見ていた。

「なあ」とMIKIさんが言った。

全員が見た。

「サイゼリヤ行かね」

五反田の、サイゼリヤ。

全員が、少し、笑った。

「行く」と町田さんが言った。

「行きます」と五十嵐さんが言った。

「行く」と澤田さんが言った。目がまだ赤かった。

「行きましょう」と森さんが言った。

五人は部室を出た。

五反田の春の光の中を、五人で歩いた。

誰も、隣の人間に、気持ちを言わなかった。

言えなかった。

しかし誰かの隣を歩きながら、その温度を感じながら、それで今日は十分だと、五人全員が思っていた。

六角形の矢印は、まだ、誰にも届いていなかった。

しかしその六角形が、少しだけ、温かくなっていた。

その夜、すず代表にLINEが来た。

森さんからだった。

「今日はありがとうございました」

すず代表は、しばらく、その文字を見ていた。

返信を打った。消した。また打った。消した。

最終的に「こちらこそ」と送った。

三秒で既読がついた。

返信は来なかった。

すず代表は、その既読を、しばらく見ていた。

窓の外に、五反田の夜が広がっていた。

言えなかったことが、まだ、喉の手前にあった。

新学期が始まった。

部室に、また埃が舞った。

五十嵐さんが窓を開けた。風が入ってきた。タブレットのページがめくれた。

そしてある月曜日の朝、部室のドアを開けた五十嵐さんが、止まった。

床の中央に、それはあった。

五十嵐さんはタブレットを開いた。

「新学期。部室内異物。再発。ハムスター、また来た模様」と入力した。

それから、少し笑った。

「また来てくれた」と、誰にも聞こえないくらいの声で言った。

その言葉が、誰に向けられたものかは、わからなかった。

部室の空気に、溶けていった。

六角形は、今日も、回っていた。

すず代表は森さんが好きだった。

五十嵐さんはすず代表が好きだった。

町田さんはMIKIさんが好きだった。

澤田さんはすず代表が好きだった。

MIKIさんは五十嵐さんが好きだった。

森さんは町田さんが好きだった。

誰も、言えなかった。

言えないまま、五反田の春が来た。

桜が散った。

部室の窓から、花びらが一枚、入ってきた。

ハムスターが、その花びらを、しばらく見ていた。

それから、また、どこかへ消えた。

明日も来るつもりだった。

——完——