
五反田学園の文芸部室は、校舎の端にあった。
古い木造の部室で、窓から五反田の街が見えた。夕方になると西日が差し込んで、埃が光の中に舞った。その埃を見ながら、六人は今日も本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。本当は、別のものを見ていた。
六人全員が、別のものを見ていた。
そのことに、六人全員が、気づいていなかった。
すず代表は、三年生だった。
容姿端麗、頭脳明晰、文芸部の部長。廊下を歩けば振り返られ、発言すれば皆が頷き、試験では常に学年トップだった。すず代表という人間は、生まれた瞬間から少女漫画の主人公だった。本人だけが、そのことを知らなかった。
森さんのことを、好きだった。
ずっと好きだった。
しかし言えなかった。言えない理由は特になかった。ただ、言えなかった。言葉というものは、大切なものほど、喉の手前で止まる。すず代表は頭が良かった。頭が良いから、言えなかった。言った後のことを、全部考えてしまうからだ。
森さんは今日も、部室の隅で本を読んでいた。
メガネをかけていた。大人しそうに見えた。すず代表はその横顔を、本の陰から盗み見た。
気づかれなかった。
毎日、気づかれなかった。
五十嵐さんは、すず代表の斜め後ろの席に座っていた。
いつもそこにいた。いつもタブレットを開いていた。文芸部の部誌のレイアウトも、予算管理も、対外的な連絡も、全部五十嵐さんがやっていた。すず代表が部長として前に立てるのは、五十嵐さんが全部後ろで支えているからだった。
誰も、そのことに気づいていなかった。
いや、正確には、すず代表だけが知っていた。知っていながら、何も言わなかった。言葉にした瞬間、何かが変わる気がして、言えなかった。
五十嵐さんはすず代表が好きだった。
ずっと好きだった。
しかしすず代表が森さんの横顔を盗み見ていることを、五十嵐さんは知っていた。斜め後ろから、全部見えていた。毎日、全部、見えていた。
見えているから、何も言えなかった。
部誌の校正をしながら、五十嵐さんは今日も、すず代表の横顔を見た。
気づかれなかった。
毎日、気づかれなかった。
町田さんは、窓際の席に一人で座っていた。
クールだった。いつもクールだった。必要な時以外は喋らなかった。必要な時でも、最小限しか喋らなかった。文芸部に入った理由を誰かに聞かれたことがあったが、「静かだから」と答えた。それ以上は言わなかった。
MIKIさんのことを、好きだった。
ずっと好きだった。
MIKIさんは声がでかかった。陽キャだった。スケベだった。メガネをかけていた。ベースを弾いていた。町田さんとは、あらゆる点で正反対だった。正反対だから、目が離せなかった。正反対だから、隣にいると落ち着いた。自分の中にないものを、MIKIさんは全部持っていた。
しかし町田さんは、それを言わなかった。
言えるはずがなかった。
クールな一匹狼が、陽キャのスケベなメガネのことを好きだと言える世界線が、どこにあるのか。
窓の外の五反田の街を見ながら、町田さんは今日も黙っていた。
MIKIさんの声だけが、部室に響いていた。
MIKIさんは、今日も声がでかかった。
「ねえ聞いて!!昨日バンドの練習でさ、ベースのソロ決まったんだけど!!」
「うるさい」と町田さんは言った。
「え、そんなこと言わないでよ!!聞いてよ!!」
「聞こえてる。うるさいから聞こえてる」
MIKIさんはめげなかった。陽キャはめげない。それが陽キャの定義だった。
MIKIさんは五十嵐さんのことが好きだった。
ずっと好きだった。
しかしそれを、誰にも言っていなかった。声がでかいMIKIさんが、唯一、声に出せないことだった。五十嵐さんの前だけ、MIKIさんは少しだけ声が小さくなった。誰も気づいていなかった。デリカシーがないと思われているMIKIさんが、五十嵐さんに対してだけ、言葉を選んでいた。
「五十嵐さん、部誌の進捗どう?」
「順調です」と五十嵐さんは言った。
「そっか!!よかった!!」
MIKIさんは笑った。大きく笑った。
五十嵐さんはすず代表を見ていた。
MIKIさんは、その視線の先を、見なかった。見たくなかったからだ。
澤田さんは、部室の一番後ろの席に座っていた。
でかかった。文芸部にいることが、構造的に間違っている体格をしていた。しかし澤田さんは文芸部にいた。理由は一つだった。すず代表が部長だったからだ。
すず代表のことが、好きだった。
ずっと好きだった。
しかし澤田さんは、繊細だった。パワー系の外見に似合わず、繊細だった。傷つくことを、誰よりも恐れていた。だから言えなかった。格闘技で鍛えた拳は、誰にでも向けられたが、好きという言葉は、誰にも向けられなかった。
澤田さんは今日も、すず代表の後ろ姿を見ていた。
すず代表は森さんを見ていた。
澤田さんは、その視線の先を、薄々感じていた。
感じているから、もっと言えなかった。
部室の後ろで、澤田さんは今日も、文庫本を読むふりをしていた。ページは、一時間で三枚しか進まなかった。
森さんは、部室の隅で本を読んでいた。
本当に読んでいた。六人の中で、唯一、本当に本を読んでいた。大人しかった。メガネをかけていた。静かだった。
しかし森さんには、誰も知らない側面が二つあった。
一つ目。キレると手がつけられなかった。
二つ目。実は六人の中で一番スケベだった。本の趣味がそれを物語っていたが、カバーをかけているので誰も知らなかった。
そして森さんは、町田さんのことが好きだった。
ずっと好きだった。
町田さんのクールさが好きだった。最小限の言葉で全部を言い切るところが好きだった。窓の外を見ている横顔が好きだった。MIKIさんに「うるさい」と言いながら、ちゃんと聞いているところが好きだった。
しかし森さんは、それを言わなかった。
町田さんがMIKIさんを見ている時の目を、知っていたからだ。
部室の隅から、森さんは全部見ていた。すず代表が森さんを見ていることも、五十嵐さんがすず代表を見ていることも、町田さんがMIKIさんを見ていることも、MIKIさんが五十嵐さんを見ていることも、澤田さんがすず代表を見ていることも。
全部、見えていた。
そして自分だけが、全部見えていることを、誰にも言えなかった。
本のページをめくった。
内容は、頭に入ってこなかった。
事件が起きたのは、十一月の月曜日だった。
五十嵐さんが部室のドアを開けた瞬間、気づいた。
床の中央に、それはあった。
説明しにくい存在感だった。主張が強かった。部室の空気を、完璧に、支配していた。
五十嵐さんはタブレットを開いた。
「部室内異物発見。月曜日。8時14分。詳細は割愛」と入力した。
割愛した。
火曜日にも、あった。
場所が少し違った。月曜日は床の中央だったが、火曜日は窓際だった。
町田さんが発見した。
窓の外を見ようとして、気づいた。
「うるさい」と町田さんは言った。
誰も喋っていなかった。
しかし町田さんには、そう言わずにはいられない何かがあった。存在への抗議だった。
水曜日にも、あった。
今度は澤田さんの席の上だった。
「なんで俺の席なんですか!!」と澤田さんは叫んだ。
「お前が犯人じゃないのか」と澤田さんは言った。
「俺じゃないよ!!失礼な!!」とMIKIさんは言った。声がいつもより更にでかかった。「つーかこれ毎日来てんじゃん!!ストーカーじゃん!!うんこのストーカーじゃん!!」
「うんこのストーカーという概念が今生まれた」と森さんは言った。
全員が森さんを見た。
森さが普段より喋った。珍しかった。メガネの奥の目が、真剣だった。
「鋭い指摘だ」とすず代表は言った。
森さんは少し、耳が赤くなった。
すず代表には気づかれなかった。
「犯人を捜す」とすず代表は言った。
全員がすず代表を見た。
文芸部に、緊張が走った。
謎のうんこが、六人を一つにした。皮肉だった。これまで誰も言えなかった気持ちは六人を別々にしていたのに、謎のうんこは六人を一つにした。世界は不条理だった。
翌日、四つ目が発見された。
今度はすず代表の席だった。
澤田さんの顔色が変わった。
「すず代表の席に置くとは」と澤田さんは言った。静かな声だった。繊細な人間の怒りは、静かで、深い。「許さない」
「落ち着け」とすず代表は言った。
「落ち着けません」と澤田さんは言った。「すず代表の席です」
五十嵐さんはその澤田さんを見た。
見ながら、タブレットに「澤田さん、すず代表への気持ちが筒抜けです」と入力した。
保存しなかった。消した。
五つ目が発見された翌日、森さんが静かに言った。
「五十嵐さん」
「はい」
「これ、窓から入ってきてると思います」
全員が森さんを見た。
「窓の鍵の位置が、毎日少しずれています」と森さんは続けた。「写真で比較しました」
五十嵐さんが目を見開いた。
「私も同じことに気づいていましたが」と五十嵐さんは言った。「森さんも気づいていたんですね」
「はい」
「いつから」
「最初から」
五十嵐さんは、少し、黙った。
「なぜ言わなかったんですか」
「言うタイミングを探していました」と森さんは言った。
部室に、静かな空気が流れた。
すず代表が森さんを見た。
森さんは窓を見ていた。
「誰より先に気づいていたんだな」とすず代表は言った。
「はい」と森さんは言った。
「頼りになる」
森さんの耳が、また赤くなった。
メガネのレンズが、少し、曇った気がした。
六つ目が発見された日、MIKIさんが叫んだ。
「今日は俺の席!!なんで俺!!」
「お前がうるさいから」と町田さんは言った。
「うんこに俺のうるささが伝わってるの!?!?」
「知らん」
「怖いよ!!」
その日の放課後、MIKIさんは一人で部室に残って、自分の席を念入りに拭いた。
その背中を、町田さんが廊下から見ていた。
見ていることに気づかれなかった。
七つ目が発見された日、森さんがキレた。
発見したのは森さんだった。
自分の席の上に、それはあった。
森さんは、五秒間、静止した。
それから、立ち上がった。
「誰ですか」と森さんは言った。
声が、いつもと違った。
低かった。静かだった。しかしその静かさが、嵐の前の静けさだった。
「森さん」とすず代表が言った。
「誰が置いたんですか」と森さんは言った。声はまだ静かだった。しかしメガネの奥の目が、別の生き物になっていた。「自分の席ならまだわかります。でも、なぜ、自分の席に置かれなければならないのか、理由がわかりません。教えてください。論理的に教えてください」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
「森さん」とMIKIさんが言った。「落ち着いて」
「落ち着いています」と森さんは言った。「これが落ち着いている状態です」
MIKIさんが後退した。
澤田さんが前に出た。格闘技の経験から、この空気を、知っていた。臨戦態勢の人間の空気を、体で知っていた。
「森さん」と澤田さんは言った。「犯人を捜そう。必ず見つける。俺が約束する」
森さんは澤田さんを見た。
五秒、見た。
「わかりました」と森さんは言った。
メガネを直した。
座った。
本を開いた。
しかしページは、一ミリも進まなかった。
部室全体が、しばらく、静寂に包まれた。
町田さんだけが、その森さんの横顔を、静かに見ていた。
あの目を、また見たいとは思わなかった。しかし、あの怒りの底にある何かを、町田さんは確かに見た気がした。
誰よりも、深いところで、何かを大切にしている人間の目だった。
見張りが始まった。
二人一組で、放課後の部室を見張ることになった。
組み合わせは、五十嵐さんが決めた。
すず代表と森さん。町田さんとMIKIさん。澤田さんと五十嵐さん。
五十嵐さんが決めた時、自分ですず代表と組まなかった。意図的に。わかっていて、そうした。すず代表と森さんを、同じ組にした。
誰も気づかなかった。
五十嵐さんだけが知っていた。
すず代表と森さんの見張りは、木曜日の夜だった。
部室に二人で座った。電気を消していた。暗かった。五反田の夜の光だけが、窓から差し込んでいた。
しばらく、誰も喋らなかった。
「森さん」とすず代表は言った。
「はい」
「あの時、怖かったか」
「何がですか」
「キレた時」
森さんは少し考えた。
「怖くなかったです」と言った。「ただ、腹が立ちました」
「何に」
「自分の席に置かれたこと、ではなくて」と森さんは言った。「誰かが犯人で、その人がここに来ているのに、誰も気づけていないことに」
すず代表は、その言葉を、暗い部室の中で転がした。
「鋭いな」とすず代表は言った。
「そうですか」
「お前は、よく見ている」
森さんは黙った。
よく見ている、という言葉が、胸に刺さった。
よく見ているから、全部わかってしまう。すず代表が森さんを見ていることも。その視線が、自分には届かないことも。
「すず代表も」と森さんは言った。
「俺も?」
「よく見ていると思います」
すず代表は少し笑った。
「そうか」
「はい」
また、沈黙があった。
「文芸部、楽しいか」とすず代表は言った。
「楽しいです」
「今年が、一番楽しかった」とすず代表は言った。
森さんは黙った。
今年が、ということは、卒業したら終わりだということだ。
「すず代表が卒業したら」と森さんは言いかけて、止めた。
「なんだ」
「寂しいです」と森さんは言った。
すず代表は、その言葉を、また転がした。
「俺も」と言いそうになった。
言えなかった。
代わりに「しっかりやってくれ」と言った。
森さんは「はい」と言った。
二人の間に、静寂があった。
すず代表は、暗闇の中で、隣の森さんを見た。
森さんのメガネに、窓の外の光が反射していた。
綺麗だと思った。
言えなかった。
町田さんとMIKIさんの見張りは、金曜日の夜だった。
MIKIさんはいつもより静かだった。
「町田さん」とMIKIさんは言った。
「なんだ」
「なんで文芸部入ったの」
「静かだから」
「俺がいるのに?」
「お前が入る前に入った」
MIKIさんは笑った。しかし笑いながら、少し、寂しそうだった。メガネの奥の目が、少し、寂しそうだった。
「俺、うるさいよな」とMIKIさんは言った。
「うるさい」と町田さんは言った。
「やっぱそうか」
「しかし」と町田さんは続けた。
MIKIさんが顔を上げた。
「お前のベースは、うるさくない」
部室が、静かになった。
MIKIさんは、三秒、固まった。
「それ、どういう意味」とMIKIさんは言った。声が、ほとんど聞こえないくらい、小さかった。
「そのままの意味だ」と町田さんは言った。窓の外を見ながら言った。
MIKIさんは、また三秒、固まった。
それから、笑った。
今まで聞いたことのない笑い方だった。声がでかくなかった。静かに、深く、笑った。
町田さんは窓の外を見続けた。
その横顔が、MIKIさんには、今まで見た何よりも綺麗に見えた。
言えなかった。
言えないまま、二人で部室の暗闇の中にいた。
その夜、謎のうんこは来なかった。
澤田さんと五十嵐さんの見張りは、土曜日の夜だった。
しばらくして、五十嵐さんが言った。
「澤田さん」
「はい」
「すず代表のこと、好きですよね」
澤田さんの体が、固まった。
「なんで」
「見てればわかります」と五十嵐さんは言った。笑っていた。「ずっと見てましたから」
澤田さんは黙った。
「私も」と五十嵐さんは続けた。
澤田さんが五十嵐さんを見た。
「私も、すず代表のことが好きです」
部室に、静寂があった。
二人は、しばらく、黙って座っていた。
「じゃあ俺たち」と澤田さんは言った。
「同じですね」と五十嵐さんは言った。笑っていた。
「どうするんですか」
「どうもしません」と五十嵐さんは言った。「どうもできません」
澤田さんは、また黙った。
「五十嵐さんは」と澤田さんは言った。「それでいいんですか」
五十嵐さんは少し考えた。
「よくないです」と言った。
笑っていなかった。
初めて、笑っていなかった。
「でも」と五十嵐さんは続けた。「すず代表の隣にいられるだけで、今は、十分です」
澤田さんは、その言葉を聞いて、胸が痛くなった。
自分も同じだったからだ。
その夜、謎のうんこは来なかった。
しかし五十嵐さんと澤田さんは、何か大切なものを、部室に置いてきた気がした。
犯人は、翌週に判明した。
あっけなかった。
隣のクラスの飼育係が、誤って逃がしたハムスターだった。
窓の隙間から入り込んで、部室を気に入って、毎日来ていた。
「ハムスターか」と澤田さんは言った。
「ハムスターでした」と五十嵐さんはタブレットに入力した。
「哲学じゃなかった」とMIKIさんは言った。
「最初から哲学ではなかったと思います」と森さんは言った。
「しかし」と町田さんは言った。「悪くなかった」
全員が町田さんを見た。
「見張りの夜が」と町田さんは続けた。それだけ言って、窓の外を見た。
全員が黙った。
悪くなかった。
全員が、そう思っていた。
森さんだけが、少しだけ俯いた。
見張りの夜のことを、思い出していた。
暗い部室で、すず代表の横顔を見た夜のことを。
自分の気持ちを、言えなかった夜のことを。
MIKIさんのライブの日が来た。
五反田のライブハウスは、狭かった。薄暗かった。ビールの匂いがした。
文芸部の六人が、全員来ていた。
MIKIさんはステージの上にいた。ベースを持っていた。メガネをかけていた。ライトを浴びていた。
いつもの陽キャのMIKIさんとは、少し違った。ステージの上のMIKIさんは、声がでかくなかった。静かに、しかし確実に、音を刻んでいた。
町田さんは、そのMIKIさんを見ていた。
ずっと見ていた。
人混みの中で、一人で立って、ずっと見ていた。
その町田さんを、森さんは見ていた。
その森さんを、すず代表は見ていた。
その隣で、五十嵐さんは、すず代表を見ていた。
その後ろで、澤田さんは、すず代表の後ろ姿を見ていた。
六人全員が、一つの空間にいた。
六つの視線が、六角形を描いていた。
誰も、自分を見ている人間に、気づいていなかった。
MIKIさんのベースだけが、その六角形の真ん中で、響き続けた。
ライブが終わった後、MIKIさんがステージから降りてきた。
町田さんに向かって、まっすぐ来た。
「来てくれると思わなかった」とMIKIさんは言った。声が、いつもより小さかった。
「来ると言った」と町田さんは言った。
「どうだった」
「良かった」と町田さんは言った。
MIKIさんは笑った。大きく笑った。しかし目が、少し、潤んでいた。メガネの奥で、少し、潤んでいた。
町田さんはそれを見た。
見て、目を逸らした。
逸らさなければ、言ってしまいそうだったからだ。
森さんは、その町田さんの横顔を見ていた。
目を逸らした町田さんの、その一瞬を、見ていた。
本のページをめくるように、静かに、見ていた。
胸が、静かに、痛かった。
帰り道、すず代表と森さんが、偶然、並んで歩いた。
「今日、良かったな」とすず代表は言った。
「そうですね」と森さんは言った。
「MIKIさん、意外とすごいな」
「ベース、上手でしたね」
また、沈黙があった。
夜の五反田を、二人で歩いた。
すず代表は、隣の森さんを、見たかった。見られなかった。こんなに近くにいるのに、見られなかった。
森さんは、隣のすず代表を、見たかった。見られなかった。こんなに近くにいるのに、見られなかった。
「また来年も部誌、よろしくな」とすず代表は言った。
三年生の、三学期だった。
「はい」と森さんは言った。
「頼りにしてる」
「はい」と森さんはもう一度言った。
それだけだった。
それだけだったが、森さんはその「頼りにしてる」を、家に帰ってから、三十回くらい思い返した。
その回数を、誰も知らなかった。
三月になった。
卒業式の日が来た。
すず代表は、制服姿で、最後に部室に来た。
五人が待っていた。五十嵐さんも、町田さんも、澤田さんも、MIKIさんも、森さんも。
「お世話になりました」とすず代表は言った。
誰も何も言えなかった。
「部誌、続けてくれ」
「続けます」と五十嵐さんは言った。
「頼んだ」
すず代表は部室を見回した。古い木造の部室。埃が舞う西日。五反田の街が見える窓。
「良い部室だった」と言った。
それだけ言って、ドアを開けた。
「すず代表」と森さんが言った。
すず代表が振り返った。
全員が森さんを見た。
森さんは、メガネをかけていた。いつも通り大人しそうに見えた。しかし目が、いつもと違った。
見張りの夜に見た目と、同じだった。
「また来てください」と森さんは言った。
それだけだった。
しかしその「また来てください」の中に、森さんが今まで言えなかった全部が、入っていた。
すず代表は、一秒、止まった。
「ああ」と言った。
笑った。
その笑顔が、五人には、眩しかった。
ドアが、閉まった。
部室に、五人が残った。
しばらく、誰も喋らなかった。
MIKIさんが、珍しく、静かだった。
町田さんが、窓の外を見ていた。
澤田さんが、目を赤くしていた。
五十嵐さんが、タブレットを閉じていた。
森さんが、ドアを、見ていた。
「なあ」とMIKIさんが言った。
全員が見た。
「サイゼリヤ行かね」
五反田の、サイゼリヤ。
全員が、少し、笑った。
「行く」と町田さんが言った。
「行きます」と五十嵐さんが言った。
「行く」と澤田さんが言った。目がまだ赤かった。
「行きましょう」と森さんが言った。
五人は部室を出た。
五反田の春の光の中を、五人で歩いた。
誰も、隣の人間に、気持ちを言わなかった。
言えなかった。
しかし誰かの隣を歩きながら、その温度を感じながら、それで今日は十分だと、五人全員が思っていた。
六角形の矢印は、まだ、誰にも届いていなかった。
しかしその六角形が、少しだけ、温かくなっていた。
その夜、すず代表にLINEが来た。
森さんからだった。
「今日はありがとうございました」
すず代表は、しばらく、その文字を見ていた。
返信を打った。消した。また打った。消した。
最終的に「こちらこそ」と送った。
三秒で既読がついた。
返信は来なかった。
すず代表は、その既読を、しばらく見ていた。
窓の外に、五反田の夜が広がっていた。
言えなかったことが、まだ、喉の手前にあった。
新学期が始まった。
部室に、また埃が舞った。
五十嵐さんが窓を開けた。風が入ってきた。タブレットのページがめくれた。
そしてある月曜日の朝、部室のドアを開けた五十嵐さんが、止まった。
床の中央に、それはあった。
五十嵐さんはタブレットを開いた。
「新学期。部室内異物。再発。ハムスター、また来た模様」と入力した。
それから、少し笑った。
「また来てくれた」と、誰にも聞こえないくらいの声で言った。
その言葉が、誰に向けられたものかは、わからなかった。
部室の空気に、溶けていった。
六角形は、今日も、回っていた。
すず代表は森さんが好きだった。
五十嵐さんはすず代表が好きだった。
町田さんはMIKIさんが好きだった。
澤田さんはすず代表が好きだった。
MIKIさんは五十嵐さんが好きだった。
森さんは町田さんが好きだった。
誰も、言えなかった。
言えないまま、五反田の春が来た。
桜が散った。
部室の窓から、花びらが一枚、入ってきた。
ハムスターが、その花びらを、しばらく見ていた。
それから、また、どこかへ消えた。
明日も来るつもりだった。
——完——



















