
「痛っ!!なんで!!」
「すみません、手が滑りました」
「滑らない!銃は手が滑らない!!」
「フォカッチャを取ろうとしたら」
「関係ない!!フォカッチャ関係ない!!」
五十嵐さんはまだ笑っていた。
しかしその目は、笑っていなかった。笑っていない目で、MIKIを見ていた。その目の奥に、MIKIは初めて見た。五十嵐さんの、本当の顔を。笑顔の下に隠れていた、全部を。
隣のテーブルの子供がフォカッチャを食べながらこちらを見ていた。母親が子供の目を両手で塞いだ。しかし母親自身の目は塞がれていなかった。見ていた。興味津々で。
「五十嵐さん」とMIKIは肩を押さえながら言った。「もしかしてすず代表のことが好きですか」
五十嵐さんの笑顔が、初めて、止まった。
サイゼリヤ全体が、一瞬静止した。ファミリーも、カップルも、一人でワインを飲んでいたおじさんも、全員が息を呑んだ。BGMだけが流れ続けた。陽気なイタリアンポップスが。場違いに。完璧に場違いに。
「好きです」と五十嵐さんは言った。
笑わずに、言った。
五十嵐さんが笑わずに何かを言ったのを、組織の人間は誰も見たことがなかった。おそらく五十嵐さん自身も、笑わずに本音を言ったのは、生まれて初めてだった。
「ずっと好きでした。ずっと見ていました。ずっと隣にいました。それなのに」
続きは言わなかった。言えなかった。代わりに、テーブルの上のフォカッチャを一つ、口に入れた。
咀嚼した。
「旨い」と五十嵐さんは言った。
涙が一粒、テーブルに落ちた。
澤田さんはその一部始終を、サイゼリヤの入口付近から見ていた。
見ながら、ミラノ風ドリアを食べていた。店内で立って。店員に何度か席に案内されたが、その都度「見張り中です」と断っていた。意味がわからなかったが、店員はそれ以上聞かなかった。五反田サイゼリヤの店員は、色々と慣れていた。
血飛沫とドリアのホワイトソースの匂いが混ざった。最悪の組み合わせだった。最高だった。
澤田さんは五十嵐さんが泣くのを見た。
生まれて初めて見た。あれほどよく笑う女が、笑わずに泣いている。その光景が、澤田さんには何故か、すず代表の横顔よりも美しく見えた。見えてしまった。見えてしまったことに、澤田さんは混乱した。混乱すると澤田さんがすることは一つだった。
壁を殴った。
サイゼリヤの壁だった。
穴が開いた。
店員が飛んできた。
「お客様、またですか」と店員は言った。またですか、と言うということは、以前にも来たことがあるということだ。澤田さんは五反田サイゼリヤの壁に、過去にも穴を開けていた。常連だった。壁に穴を開ける常連として。
「弁償します」と澤田さんは言った。
「三万円です」と店員は言った。
「高い」と澤田さんは言った。
「前回も同じことおっしゃってましたよ」と店員は言った。
澤田さんは黙ってドリアの最後の一口を食べた。旨かった。旨かったが、涙でしょっぱかった。弁償代のせいではない。全部が、一度に来たからだ。すず代表への気持ちと、五十嵐さんの涙と、穴の開いた壁と、三万円と、ドリアの最後の一口が。
全部が、一度に来た。
翌日、MIKIが組織に戻ってきた。
肩に包帯を巻いて。ただし表情は普段と変わらなかった。何事もなかったように出勤してきた。この無自覚さが、MIKIという人間の最大の特徴であり、最大の武器であり、最大の罪だった。
「五十嵐さんに撃たれました」とすず代表に報告した。
「そうか」とすず代表は言った。
「どうしますか」
「放っておけ」
「え、でも」
「MIKIは怪我をしたか」
「しました」
「では私が治してやる」
この一言で、組織全体の空気が変わった。
すず代表が誰かのために何かをする。それ自体が、前代未聞の事件だった。三十七名が行方不明になった歴史の中で、すず代表が自発的に誰かのために動いたのは、初めてのことだった。
給湯室で、マグカップが砕ける音がした。三個分だった。
廊下で、壁に穴が開く音がした。七個分だった。後で修繕費の請求書が届くことになるが、それは翌週の話だ。
MIKIだけが、すず代表に手当てをしてもらいながら、何が起きているのか全くわかっていなかった。
「すず代表、サイゼリヤのドリアって好きですか」
「食べたことがない」
「え、じゃあ今度一緒に行きましょう」
組織全体が、二度目の静止をした。
その夜、五十嵐さんと澤田さんは、五反田サイゼリヤで向かい合っていた。
MIKIも、すず代表も、いなかった。二人だけだった。こんなことは初めてだった。いつもすず代表を中心に、その周囲を回っていた二人が、すず代表なしで、同じテーブルに座っていた。
五十嵐さんはワインを飲んでいた。
澤田さんはドリアを食べていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「澤田さん」と五十嵐さんが先に口を開いた。笑っていなかった。昨夜から、笑うのをやめていた。「MIKIさんのこと、どう思いますか」
澤田さんはスプーンを止めた。
「どうって」
「見てたでしょう。昨夜、私が泣いてるの」
「見てた」
「壁に穴も開けてたでしょう」
「開けた」
「三万円だったでしょう」
「だった」
五十嵐さんは少し黙った。
「MIKIさんは、すず代表を変えますよ」と五十嵐さんは言った。「あの人が誰かのために動くなんて、今まで一度もなかった。それがMIKIさんが来てから——」
「わかってる」と澤田さんは言った。
「じゃあどうするんですか」
澤田さんはドリアの最後の一口を食べた。
「どうもしない」
「どうもしないんですか」
「どうもできない」
五十嵐さんは黙った。澤田さんも黙った。
BGMが陽気に流れ続けた。
「私たち、負けましたね」と五十嵐さんは言った。笑わずに言った。
「負けた」と澤田さんは言った。
「それでもすず代表のことが好きですか」
澤田さんはしばらく考えた。
「好きだ」
五十嵐さんは頷いた。
「私もです」
二人は同時に、ミラノ風ドリアを一皿ずつ追加注文した。
終わりは、五反田サイゼリヤから始まった。
四人全員が揃っていた。MIKIの「今度一緒に行きましょう」という無自覚な一言が、この結末を引き寄せた。四人が最後に同じ場所にいた夜だった。
店内はいつも通りだった。ファミリー層がいた。カップルがいた。一人でワインを飲んでいるおじさんがいた。昨夜も同じ席にいたおじさんだった。毎日来ているのか、あるいは昨夜からずっといるのかは、誰にもわからなかった。
澤田さんが先に口を開いた。
「すず代表」
「なんだ」
「俺はずっとすず代表のことが好きだった」
沈黙。
おじさんがワインを静かに置いた。
五十嵐さんが笑った。昨日から笑うのをやめていたはずだったが、この瞬間だけ、笑った。乾いた、しかし本物の笑いだった。
「澤田さん、正直ですね」
「五十嵐さんだって好きだろ」
「好きです」と五十嵐さんは間髪入れずに言った。
その即答に、澤田さんが少し目を見開いた。いつもなら笑顔で誤魔化す五十嵐さんが、笑わずに即答した。
「MIKIさんだって」と澤田さんは続けた。
MIKIがミラノ風ドリアを噴いた。「え、私!?」
「全員好きだった」と澤田さんは言った。「全員すず代表が好きだった。全員知ってた。全員黙ってた。もう黙るのやめようと思って」
すず代表はフォカッチャを食べていた。
全員がすず代表を見た。
すず代表はフォカッチャを食べ終えて、皿を置いて、全員を見た。
「知っていた」
「じゃあ」と五十嵐さんが言った。今度は笑っていなかった。「すず代表は誰が好きなんですか」
すず代表は答えなかった。
答えない、ということが、答えだった。
おじさんがワインをもう一杯頼んだ。正しい判断だった。
銃声は唐突だった。
誰が最初に撃ったかは、諸説ある。五十嵐さんという説と、澤田さんという説と、MIKIが間違えてフォカッチャを取ろうとして撃ったという説がある。フォカッチャ説が最も有力だった。
五反田サイゼリヤは、一瞬で戦場になった。
テーブルが吹き飛んだ。フォカッチャが宙を舞った。ミラノ風ドリアが壁に張り付いた。ディアボラソースが飛び散った。ファミリー層が粛々と避難した。慣れていた。五反田サイゼリヤでは、よくあることだった。
おじさんだけが動かなかった。ワインを飲み続けた。
五十嵐さんは笑いながら撃った。
澤田さんは泣きながら撃った。
MIKIは謝りながら撃った。
すず代表は何も言わずに撃った。
血飛沫とディアボラソースと涙と笑い声と謝罪が混ざり合った。タランティーノが見たら泣いて喜んだはずだ。いや、舞台が五反田サイゼリヤである点に難色を示したかもしれない。しかし他に場所はなかった。五反田には、サイゼリヤしかなかった。
澤田さんが最初に倒れた。
倒れる前に、すず代表を見た。すず代表は澤田さんを見ていた。見ていてくれた。それだけで、澤田さんには十分だった。
「すず代表」と澤田さんは言った。
「なんだ」
「ドリア、旨かったです」
「フォカッチャの方が旨い」
「そうですね」と澤田さんは言った。「次はフォカッチャにします」
次はなかった。しかし澤田さんの顔は、穏やかだった。壁の穴のことも、三万円のことも、全部どうでもよかった。
すず代表は何も言わなかった。
言えなかった。
五十嵐さんが次に倒れた。
笑っていた。最後まで笑っていた。しかし今度の笑顔は鎧ではなかった。本物だった。笑顔の下に刃のない、ただの笑顔だった。
「すず代表」と五十嵐さんは言った。
「なんだ」
「私、ずっと好きでした」
「知っている」
「知ってたんですね」
「ずっと前から」
「じゃあなんで」と五十嵐さんは言いかけて、止めた。止めて、笑った。「まあ、いいか」
「フォカッチャ、最後に食べられてよかった」
それが最後だった。
すず代表は何も言わなかった。言えなかった。それが唯一の後悔だった。ずっと隣にいた人間に、一度も、旨いと言ってやれなかった。
MIKIは最後まで残った。
血まみれで、包帯が取れて、ディアボラソースまみれで、それでも立っていた。頑丈だった。あるいは単純に主人公補正だった。
「すず代表」とMIKIは言った。
「なんだ」
「私、何も知らなかったです」
「知っている」
「みんなのこと、もっと早く知りたかったです」
「知っている」
「サイゼリヤ、また来たかったです」
すず代表は答えなかった。
代わりに、MIKIの方へ歩いた。ディアボラソースと血飛沫の中を、静かに歩いた。MIKIの前に立った。
そしてすず代表は、初めて、誰かの手を握った。
MIKIの手を、握った。
「また来ればいい」とすず代表は言った。
嘘だった。しかし嘘をついたのは、生まれて初めてだった。
それが、すず代表の最後の言葉だった。
おじさんは最後までワインを飲んでいた。
四人が全員倒れた後、静かにグラスを置いた。財布から小銭を丁寧に出した。テーブルに置いた。
ちょうどの金額だった。
「ごちそうさま」と言って、出ていった。
誰も、おじさんが何者かを知らなかった。
五反田サイゼリヤの店長は、翌朝、四人を発見した。
全員、テーブルの周りで倒れていた。ディアボラソースと血の中で、倒れていた。壁には澤田さんがつけた穴が七個あった。形でわかった。
店長は警察を呼ぶ前に、一つだけ確認した。
ドリアの残量を。
四人とも、完食していた。
店長は泣いた。飲食店として、これ以上の褒め言葉はなかった。
春になった。
五反田サイゼリヤは、三日後に営業を再開した。
店長はメニューを一つ増やした。
「四人盛りドリア」という名前だった。ミラノ風ドリアが四皿、一つのトレーに乗って出てくるだけだった。値段は1196円だった。299円の四倍だった。なんの工夫もなかった。しかし誰も文句を言わなかった。
誰も頼まなかった。しかしメニューから消えることもなかった。
ある夜、ドアが開いた。
店長が顔を上げた。
見たことのない人間が立っていた。すず代表に似ていた。しかしすず代表ではなかった。目が、少し、温かかった。手に、古い銃傷があった。
「四人盛りドリア、一つください」とその人間は言った。
「お一人ですか」と店長は聞いた。
「今は」とその人間は言った。「でも、もうすぐ増えます」
店長は黙って頷いた。
厨房に戻りながら、店長は思った。
まだ、終わっていない。
壁に、新しい穴が開いていた。
澤田さんの穴とは、形が違った。
——完——



















