
私はコーラを買った。
それは一つの決意であった。自動販売機の前に立ち、無数の選択肢の中からコーラを選ぶという行為は、一見些細に見えて、実は存在の全重量を賭けた選択である。緑茶でもなく、スポーツ飲料でもなく、コーラでなければならなかった。その黒い液体の中にのみ、私が求める何かが宿っていた。甘美な頽廃とでも言うべきか。コーラとはつまり、文明の象徴ではなく、文明の末裔である。
蓋を開けた。炭酸が逃げた。
私はその音に、日本の戦後を聞いた。
公園のベンチに腰を下ろすと、一頭のボーダーコリーが視界を横切った。その疾走の純粋さに、私は思わず息を呑んだ。あの肉体には迷いがない。思想がない。思想がないがゆえに、あれほど美しく走れる。人間が走れなくなったのは、二本足で立った瞬間ではなく、言葉を持った瞬間である。言葉は呪いだ。言葉を持つ者は、走りながら走ることの意味を問う。問うた瞬間に、脚が鈍る。
ボーダーコリーは問わない。ただ走る。その潔さを、私は羨望と憎悪の入り混じった眼差しで見つめた。美しいものを前にした時、人間の感情はいつもこの二つの色に染まる。
犬のお尻が、夕光の中で遠ざかっていった。
唐揚げを食った。
これは告白である。哲学でも美学でもなく、ただの告白だ。私は唐揚げを前にすると、あらゆる思想が瓦解する。三島由紀夫も、ニーチェも、ドストエフスキーも、揚げたての唐揚げの前では無力である。カリカリとした衣の内側に閉じ込められた肉汁が、奥歯を満たす瞬間、私の中の観念的な自我は完膚なきまでに敗北する。
これが肉体の勝利というものだ。
精神がいかに高邁な理想を掲げようとも、肉体は唐揚げを欲する。その欲望の正直さの中に、私はむしろ一種の崇高さを見出す。黒豹が獲物の喉笛を噛む瞬間も、これと同じ崇高さを帯びているに違いない。文明とは、その崇高さを恥じることを覚えた状態のことである。
私は三個食った。少し恥じた。それが文明というものだ。
自然は黙っている。
これが自然の最も残酷な点である。私がどれほど切なくとも、山は動かない。川は止まらない。風は私の感傷を知らない。知らぬまま、葉を揺らす。自然の無関心は、人間の無関心とは質が違う。人間の無関心には悪意の可能性が潜んでいるが、自然の無関心には悪意すら存在しない。それがかえって、深く人を傷つける。
憎むことのできない冷淡さというものが、世界で最も美しく、最も耐え難い。
夜、寿司を食った。
マグロの赤身を口に含みながら、私は日本というものを思った。この国の美意識は、常に喪失と隣り合わせにある。桜は散るから美しい。寿司は食われるために握られる。完成と同時に始まる崩壊。その予定された終わりの中にのみ、日本の美は宿る。
シャリの白さが、やけに眩しかった。
眠れない夜に、カレーを煮た。
玉ねぎを炒めながら私は考えた。カレーとは何か。インドに生まれ、イギリスに渡り、日本に根付いた、この奇妙な混血の料理は、純粋さというものへの緩やかな反論ではないか。純血を誇るものは美しいが脆い。雑種は美しくないかもしれないが、強く、深く、そして温かい。
スパイスの香りが部屋に満ちた。私は少し、救われた気がした。
翌朝、温め直したカレーはさらに旨かった。
これが私には、どうしても許せなかった。昨日より今日の方が旨いということが。それはつまり、過去は常に現在に負けるということだ。英雄の死とは、こういうことかもしれぬ。生き長らえるほどに、伝説は稀薄になる。
私はカレーを残さず食い、空になった鍋を見つめた。
炭酸の抜けたコーラを飲んだ。甘いだけだった。
窓の外、朝の光の中を、ボーダーコリーが走っていた。今日も迷いなく、美しく、何も問わずに。
私はその疾走から目を逸らした。
眩しすぎた。
——了——




















